本サイトではより多くの方に快適に利用して頂ける様に、アクセシビリティ面を充分に考慮したコンテンツの提供を心がけております。その一環として、閲覧対象コンテンツのすべてにスタイルシートを使用して制作しております。現在閲覧に使用されているブラウザには、当方制作のスタイルシートが適用されておりませんので表示結果が異なりますが、情報そのものをご利用するにあたっては問題はございません。

トピックス

+会員限定コラム

MEMBER COLUMN

「日本人が海を渡ってホノルルマラソンへ(1)」1975年に初取材、日本人参加者はただ一人

2021年5月13日

1977年2月号「ホノルルマラソン特集」の記事

1977年2月号「ホノルルマラソン特集」の記事


ランナーズ創刊編集長の下条由紀子が1980年代「ホノルルマラソン誕生秘話」を綴ります(日本人がホノルルマラソンを走るようになったのは弊社=旧株式会社ランナーズがツアーを組むようになってからです)。

昨年12月の第45回ホノルルマラソンは残念ながらコロナ禍で開催が中止になってしまいましたが。
私と橋本(当時カメラマン)が初めてホノルルマラソンに取材に行ったのは1976年12月の第4回大会、全体の参加者数は1700名、地元在住の日本人にはいましたが、日本からの出場は佐々木生道さん(当時63歳)一人でした。様子は「ランナーズ」の1977年2月号に掲載しました。そのページの末尾に「来年の5回大会にはランナーズホノルルマラソンツアーを組みます」と記載、本誌上で参加者を募集し、78年の大会には80名のランナーと一緒にホノルルに走りに行きました。その中にはツアーコーチとして群馬大学の山西哲郎先生、また一般参加してくださったフォークシンガー高石ともやさんもいました。この年は、日本からもツアーや、個人で参加された方もおられ、大会の参加者総数は4000名に上りました。

私の初マラソンも正確にはこのホノルルです。自身は練習不足というか、フルマラソンに対する知識、認識不足で行きはヨイヨイだったものの、帰りは(記憶の上では)歩くような足取りで、非常につらかった思い出が残っていますが、記録は4時間そこそこ、若さ(当時29歳)のゆえでしょう。

当時の日本のフルマラソン大会は制限時間も厳しく、いわば陸上競技者向けの大会でしたので、陸上競技経験が全くない、また走ることが好きな市民ランナー向けの雑誌(ランナーズ)を発行していた自分たちにとって、これぞ「私たちのフルマラソンだ」という思いがありました。年毎のツアー参加者も自らフルマラソンを走る人だけでなく、全国のランニング大会を主催する関係者が「後学のため」に参加する例も見受けられるようになりました。

ランナーズのホノルルマラソンツアーの参加者は年毎に増え、(当時の会社の)年中行事のようにもなり、最高では1000人に上ったことがあります(12月支給の冬のボーナスをこれで賄ったこともあります)。われわれは参加者(ランナーほか)の募集を「ランナーズ」誌上で行っていましたが、航空機や現地ホテルの予約などの旅行部分は旅行会社が手配、催行するため、旅行社も人数が多いため4-5社にお願いするようになりました。同時に、参加者はフルマラソンを完走するために参加する方ばかり(しかも初挑戦者が圧倒的に多い)でしたので、皆さまのお世話をするために随行する弊社社員も多数必要でしたが、「マラソンを完走した経験者」を言明したため、あわてて国内のフルマラソンを走った社員も多くいました(笑)。


プロフィール

自己ベストを出した1987年ウイーンマラソン
自己ベストを出した1987年ウイーンマラソン

下条由紀子(しもじょう・ゆきこ)
株式会社アールビーズ取締役副社長、月刊ランナーズ編集局長。
フルマラソンは完走150回、自己ベスト3時間02分31秒(1987年オーストリア・ウイーン)。
ランナーズ創刊後の1976年12月に第4回ホノルルマラソンを出走、翌年からランナーズホノルルマラソンツアーを開始。1979年の第1回東京国際女子マラソンの参加者告知に関わり、自身も同大会に出場。著書に『ベストジョギング―走る楽しさ生きる歓び (新潮文庫) 』。
※今後のコラムで「ホノルルマラソン」「東京国際女子マラソン」を取り上げます。






記事をもっと見る

ランニング初心者集まれ