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MEMBER COLUMN「ランナーズ創刊物語(4)」1976年の青梅マラソン「創刊号を手売り」
創刊号を販売した青梅マラソンの様子を第二号で紹介した |
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創刊号の表紙 |
「ランナーズ」の創刊日は2月の青梅マラソンに決めていました。青梅マラソンは当時、市民マラソン大会としてはもっとも有名で、自分自身も過去に出場していたこともあり、「お披露目」はここと決め、主催者にも許可を得て、場所の確保と長机1台を借りる約束もできていました。1976年2月の第3日曜日、天気は快晴。レンタカーの小型トラックに雑誌を載せて、高揚した思いで青梅の会場に向かった時のことはいまも思い出します。
長机に並べていたら、32ページと今でいうパンフレットの厚さに近かったためか、「もらっていっていいですかー」と参加者(ランナー)が手に取って行ったので、慌てて「有料、280円なんですよー」と追っかけた記憶があります(そうそう、定価を280円に設定したのは、当時、喫茶店で飲むコーヒー1杯の値段と同じにしただけ、と非常に安易な決め方でした)。
表紙が(仲良しの雰囲気が出た)ご夫婦と女の子の微笑ましい家族ランニング風景の写真だったので、中身は理解できたのでしょうが、タダと思われたのはちょっとショックでした。
また前号にも書きましたように、この創刊年は7、8月と12、1月を合併号とすることに決めていましたので、12月にはハワイのホノルルマラソンに取材に行くことにしていました。その話を事前に、その頃いろいろアドバイスをいただいていた佐々木生道さん(当時60歳)に話したら、「私は出場します!」と宣言されました。佐々木さんは東京・渋谷で家電製品の販売を手広く展開されていた会社の社長さん。超肥満(100kgだった体重を毎日のランニングで半分(50kg)に落とした方でした。
佐々木さんはホノルルマラソンのあとに、2月に行われた別府大分マラソンにも出場されました。ただその頃の別府大分マラソンはいわゆるエリートマラソンでしたので出場資格記録が厳しく、佐々木さんは正規で出場することができなかったため、全選手がスタートを切ったあと、「ひとりぼっち」のスタート。橋本が写真を撮り、私は拍手で送りだしました。
プロフィール
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自己ベストを出した1987年ウイーンマラソン |
下条由紀子(しもじょう・ゆきこ)
株式会社アールビーズ取締役副社長、月刊ランナーズ編集局長。
フルマラソンは完走150回、自己ベスト3時間02分31秒(1987年オーストリア・ウイーン)。
ランナーズ創刊後の1976年12月に第4回ホノルルマラソンを出走、翌年からランナーズホノルルマラソンツアーを開始。1979年の第1回東京国際女子マラソンの参加者告知に関わり、自身も同大会に出場。著書に『ベストジョギング―走る楽しさ生きる歓び (新潮文庫) 』。
※今後のコラムで「ホノルルマラソン」「東京国際女子マラソン」を取り上げます。