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市民ランニング小史

市民ランニング小史(1990年代)

市民ランニング小史

1990年(平成2年)

【海外】10月3日のドイツ統一に先立ち9月30日、ドイツ分断の象徴だったブランデンブルク門を走り抜け、東ベルリンを折り返す「ベルリンマラソン」が行われた。メモリアルな大会には世界60カ国から36,000人の参加希望者が殺到、そのうち24,643人が出場した。

写真 : 沿道にも100万人の人が集まり、大会を見届けた

沿道にも100万人の人が集まり、大会を見届けた

(c)共同通信社

1991年(平成3年)

<8月>

東京で開催された「91世界陸上競技選手権大会」。女子マラソンは25日行われ、真夏の悪条件と世界の強豪という2つの難敵を相手に山下佐知子(京セラ)が大健闘、2時間29分57秒で銀メダルを獲得した。日本女子陸上界では63年ぶりの快挙。4位には有森裕子(リクルート)2時間31分08秒。

写真 : 世界陸上で日本初のメダルをもたらし、一躍脚光を浴びた山下佐知子

世界陸上で日本初のメダルをもたらし、一躍脚光を浴びた山下佐知子

一方、男子マラソンは大会最終日の9月1日に行われ、参加60人中24人が棄権する高温多湿の厳しい条件下でのレースとなった。メコネン、サラ、ボルディン、あるいは中山竹通ら本命視された選手が次々と脱落する中、堅実な走りを見せた2時間14分57秒の谷口浩美が堂々の金メダルに輝いた。

写真 : 38km地点から独走態勢に入った谷口浩美

38km地点から独走態勢に入った谷口浩美

<11月>

17日、「91東京国際女子マラソン」で谷川真理が初優勝。日本人が同大会で勝ったのは1983年の佐々木七恵以来、8年ぶり2度目。皇居を走る市民ランナーだったという谷川の経歴が、いっそうニューヒロインの誕生を際立たせた。

写真 : 皇居のランナーが「東京」を制した

皇居のランナーが「東京」を制した

1992年(平成4年)

<1月>

都心を5,000人のランナーが駆け抜ける「第1回東京シティマラソン」が26日開催された。ハーフマラソンとはいえ大規模な市民レースが東京で開催されたのは画期的であり意義深い。優勝は男子がスティーブ・モネゲッティ(オーストラリア)で1時間00分27秒、女子がエリザベス・マッコルガン(イギリス)で1時間07分11秒、ともに世界最高だった。

写真 : スタートは、東京都のシンボル都庁前から

スタートは、東京都のシンボル都庁前から

<8月>

バルセロナオリンピックの女子マラソンは1日行われ、有森裕子がロシアのエゴロワと接戦の末、銀メダルを獲得。また、山下佐知子は4位、小鴨由水は29位だった。

写真 : 優勝者エゴロワと互いの健闘をたたえ合う有森裕子

優勝者エゴロワと互いの健闘をたたえ合う有森裕子

(c)フォート・キシモト

9日開催の男子マラソンも女子と似たレース展開となり、韓国の黄と森下広一が終盤までデッドヒートを繰り広げた。森下は2位、中山竹通が4位、途中「こけちゃいました」という不運に見舞われた谷口浩美が、それでも8位でゴールしたのが話題になった。

写真 : 韓国勢にはさまれ孤軍奮闘する森下広一

韓国勢にはさまれ孤軍奮闘する森下広一

(c)フォート・キシモト

1993年(平成5年)

<6月>

100キロロードレースは92年からIAAF(国際陸上競技連盟)の公認種目となったが、「サロマ湖100kmマラソン」も国内で初めて日本陸連の公認コースになった。記念すべき公認レースは27日、雨の降りしきる中で行われ、柏原敏郎さんが6時間43分14秒で優勝した。

写真 : 韓国勢にはさまれ孤軍奮闘する森下広一

<8月>

北米大陸4,700kmを64日間で横断する「トランスアメリカ・フットレース」が21日最終日を迎えた。6月19日のスタート時にいた13人のランナーはあまりにも長く厳しい闘いに次々と脱落、セントラルパークのゴールに辿り着いたのは6人だった。日本から唯一の参加者だった高石ともやさんは、見事完走者のひとりになった。

写真 : 1日平均75kmを約11分ペースで走り、それが64日間も続くトランスアメリカ。制限時間付きの大陸横断サバイバルレースといえる

1日平均75kmを約11分ペースで走り、それが64日間も続くトランスアメリカ

1994年(平成6年)

<3月>

平安建都1200年を記念する「京都国際ハーフマラソン」が20日、国内外のランナー12,000人を集めて開催された。古都の中心街を駆け抜けるコースに人気が沸騰し、申し込み人数は参加者の2倍以上の27,364人に達していた。大会に先駆けてはマラソンエキスポやマラソンフォーラムなど盛り沢山のサブイベントも行われた。

写真 : 高校駅伝などでおなじみの都大路を市民ランナーが走れる、と大会前から話題になった

高校駅伝などでおなじみの都大路を市民ランナーが走れる、と大会前から話題になった

<10月>

【海外】世界最大規模のマラソンのひとつに数えられる「ニューヨークシティマラソン」の育ての親、フレッド・リボウ氏が9日、62歳の生涯を閉じた。リボウ氏は会員数270人だったNYロードランナーズクラブを31,000人の組織にするなど、その人生をマラソンの普及と発展に捧げた。

写真 : リボウ氏は「レースディレクター」という名を定着させ、大都市で多くの参加者や市民が楽しめる、宗教や人種を超えた「祭典」的な都市マラソンの原型を1970年代から構想、実施した。大会運営のパイオニアであり、また現代マラソン最大の貢献者のひとりである

現代マラソン最大の貢献者のひとりである

1995年(平成7年)

<1月>

17日未明に兵庫県南部を中心に発生した阪神大震災は、死者5,000人を超える大惨事となった。その影響下にある関西地区での大会が続々と自粛・中止を発表。「大阪国際女子マラソン」、「篠山ABCマラソン」も取り止めることが決定した。

<3月>

タレントでありランナーでもある上岡龍太郎さんの名を冠したマラソン大会が出現した。12日行われたマウイマラソンは開催25回目を迎える伝統のある大会。「KAMIOKAマウイマラソン」となった今大会には前年の倍近い574人が参加した。

写真 : マウイマラソンは、同じハワイのホノルルマラソンと比較すると運営規模は小さく知名度も低い。だがコースの景観も美しい素晴らしい大会だ……ということでスポンサーを買って出たのが上岡さんだった

スポンサーを買って出たのが上岡さんだった

所属する実業団(NECホームエレクトロニクス)の選手のみならず一般市民ランナーからトップアスリートにまで多大な影響を与え続けた名監督、佐々木功氏が、ガンのため13日亡くなった。LSD理論を基調にした「ゆっくり走れば速くなる」で安全かつ効率的なランニングを説き、オリンピックランナー・浅井えり子を世に送り出したことでも知られる監督の52歳の早すぎる死に、ランニング界は衝撃に包まれた。

写真 : 「LSD(ロングスローディスタンス)」という言葉を広めた佐々木功監督。1984年に著した『ゆっくり走れば速くなる』は初心者ランナーの格好の教本となり、多くの人をランニングの世界に招くと共に、走る喜びとその豊かさを教えてくれた

「LSD(ロングスローディスタンス)」という言葉を広めた佐々木功監督

<12月>

【海外】米国の陸上専門誌トラック・アンド・フィールド恒例の1995年度最優秀選手に、この年のシーズン5000mで12分44秒39、1万mでも26分43秒53と2つの世界新記録を出したエチオピアのハイレ・ゲブレシラシエが選ばれた。同選手はこの年不敗の活躍で、1万mの世界チャンピオン。

1996年(平成8年)

<2月>

東京五輪マラソン銅メダリスト「円谷幸吉と走ろう」の呼びかけで1967年(昭和42年)にスタートした青梅マラソンは、この年30回目の記念大会を迎えた。が、前日から降り始めた雪によって20cmの積雪と道路の氷結があり、大会組織委員会は当日午前5時、同大会史上初の中止を決定。3倍近い競争率をくぐり抜け出場の権利を得たランナーたちは、中止と知っても会場を訪れ、残念そうに会場を後にした。

写真 : 1万5000人のランナーがっかり、雪で中止の「第30回青梅マラソン」

1万5000人のランナーがっかり、雪で中止の「第30回青梅マラソン」

【海外】国際マラソンロードレース協会(AIMS)の総会は、チャンピオンチップで計測されたネットタイム(スタートからゴールまでにかかった正味時間)が、AIMSのタイムとして公認されることを正式に決定(日本では1995年秋からランナーズ社が各地の大会で計測に導入済み)。これにより、世界の大衆マラソン大会において、チャンピオンチップタイムが事実上世界標準仕様と認められたことになる。海外でこれを採用している主な大会は、ニューヨーク、ボストン、シカゴ、ホノルル、ロンドン、パリ、ベルリン、ロッテルダム……と枚挙にいとまがない。アトランタ五輪でもチップ採用へ。

写真 : チャンピオンチップとは、シューズの靴紐部分に付ける直径3cm、重量約3gの小型発信器。これを装着したランナーがカーペット状のアンテナを通過すると、アンテナから発射された電波がチップのナンバーを素早く読み取り、時間を記録する。この画期的システムの登場によって、従来計時されていなかったスタートラインの通過時間、5km、10kmなど各地点の通過タイム(スプリットタイム)、フィニッシュタイムが瞬時に計測されるようになった。世界に一つだけの番号を個人登録できるイエローチップは(他にレンタル用のブラックチップもある)、それを所有していれば世界中のチップ使用大会で通用する。日本では、イエローチップはランナーズチャンピオンチップ=略称RCチップとしてランナーズ社より購入可。ランニング記録計測において、より正確な記録を迅速に、という新たな時代の幕開けとなった。

チャンピオンチップとは、シューズの靴紐部分に付ける直径3cm、重量約3gの小型発信器

<4月>

【海外】15日、第100回ボストンマラソン開催。1896年アテネで開かれた第1回近代オリンピックのマラソン競技に深い感銘を受けたウィルソン氏(ボストン・アスレチック協会)が、アテネに似たコースを選んで、翌年「愛国の日」に開催した世界最古の市民マラソンである。厳しいエントリー制限時間、元祖ハートブレイク・ヒルなど、今も世界中のランナーを惹きつけてやまない伝統ある大会。

写真 : 長い歴史と伝統、参加のための資格タイム、そして難コース。沿道を埋め尽くす観客たちは、そんな「ボストン」を走るランナーに盛大な応援を送る

長い歴史と伝統、参加のための資格タイム、そして難コース。沿道を埋め尽くす観客たちは、そんな「ボストン」を走るランナーに盛大な応援を送る

21日、静岡県つま恋で開催された第9回小笠・掛川マラソンで、全参加者の5kmごとのスプリットタイムと、スタートラインまでのロスタイムを差し引いたネットタイムの完全計測が、RCチップにより日本で初めて行われた。グラフ付きスプリットタイムとネットタイム入りの完走証には、ランナーたちから驚きと喜びの声が。

<7月>

アトランタオリンピック開催。注目の女子マラソンの有森裕子は、バルセロナの銀に続き、堂々の銅メダル。2大会連続メダル獲得の快挙となった。優勝はエチオピアのファツマ・ロバ。男子マラソンの優勝はジョサイア・チュグワネ(南アフリカ)。
ほか、女子5000mの志水見千子4位、女子1万mの千葉真子5位、川上優子は7位と女子勢の健闘ぶりが光った。

写真 : 有森裕子「はじめて自分で自分をほめたいと思います」というフィニッシュ後の言葉が感動を呼んだ

有森裕子「はじめて自分で自分をほめたいと思います」というフィニッシュ後の言葉が感動を呼んだ

<10月>

「第1回えちごくびき野100kmマラソン」開催。新潟県上越市ほか11町村を通り、田園、山岳、海沿いという変化あるコースを走る。30kmと50kmの手前の2カ所で山を登り下りするが残りは平坦。前年に長野県で開催された「第1回星の郷八ヶ岳野辺山高原100kmウルトラマラソン」と共に、ウルトラマラソンブームを反映して、のちの人気大会に成長。

写真 : 2年に1度の開催ということもあり人気の高い大会。地元のサポートも手厚い

2年に1度の開催ということもあり人気の高い大会。地元のサポートも手厚い

<12月>

アトランタオリンピックで銅メダルを獲得した有森裕子がプロ宣言。日本陸連はメダリストの特例としてこれを受け入れた。バロセロナ銀、アトランタ銅と2大会連続メダルを獲得した有森の功労という形での前進であり、後輩選手にとっての朗報となった。

1997年(平成9年)

全国ランニング大会100撰が『ランナーズ』誌上で始まる。山には「100名山」というものがあるが、このランニング大会版をつくろうというのがきっかけ。マラソン大会のよしあしを「制限時間」「賑やかさ」「景色」「参加賞」「応援」など様々な観点から、実際に走った市民ランナーの投票によって選ぶという企画である。エントリーする大会を選ぶのに役立つ、とランナーから好評を得ると同時に、大会主催者側へは、よりよい大会運営をしようという気運をつくった。

<6月>

ヨーロッパのグランプリを転戦中の弘山晴美が5000mで15分7秒75の日本新をマーク。トラック種目での女子の海外挑戦が、新しい流れとして見受けられるようになった。

<8月>

2日~10日、アテネ世界陸上選手権開催。日本勢は女子の活躍が目立ち、マラソンの鈴木博美が2時間29分48秒で優勝、飛瀬貴子が4位。トラックでは、1万mの千葉真子が3位となり、人見絹枝以来のトラック競技でのメダルを獲得した。5000mの弘山晴美は8位に入賞。

写真 : 女子マラソン優勝の鈴木博美

女子マラソン優勝の鈴木博美

(c)北川外志廣

<7月>

【海外】全米一のランニング雑誌「ランナーズワールド」誌の発行人ジョージ・ハーシュ氏が、アメリカは第2次ランニングブームの最中にあると宣言。根強い生涯スポーツの側面と共に、新たな現象としては、ランニングがチャリティ活動とつながり、ボランティアの一環として盛んになってきたことなどを挙げている。乳がんや肺がん撲滅、交通遺児救済などの寄付金を集める社会貢献の手段のひとつとして、ランニング大会は位置づけられていくことが多くなってきた。

<9月>

インターネット上に「RUNNET」が開設された。大会ガイド、大会結果、大会エントリー(NET-RUNTES)の三大特徴をメインに、市民ランナーたちのニーズに応える情報を満載したランニングの専門サイト。ホームページへのアクセスがスポーツを楽しむきっかけづくりになる、と好評を博す。

1998年(平成10年)

<3月>

「名古屋国際女子マラソン」は中盤までスローペースで推移したが、30kmでスパートしたマラソン2回目の高橋尚子が35kmまでを16分6秒、40kmまでを16分21秒、ラスト2.195kmを7分10秒という驚異のペースで走り切り、2時間25分48秒の日本最高をマーク。高橋尚子時代の到来を予感させた。

<5月>

都内で初の本格的フルマラソン大会「第1回東京・荒川市民マラソン」開催。東京の北東部に流れる荒川河川敷をスタートゴールとし、制限時間はゆっくりランナーも安心して走れる7時間。国内の大会では非常に高い完走率93.7%となった。第3回大会からは早くも参加者1万人を突破している。

写真 : 第1回大会には、初挑戦ランナーを含め関東地方を中心に全国各地から5,886人が出場した

第1回大会には、初挑戦ランナーを含め関東地方を中心に全国各地から5,886人が出場した

<6月>

【海外】エチオピアのハイレ・ゲブレシラシエが、1日、オランダのヘンゲロで行われたポーレン記念グランプリ競技大会の男子1万mで26分22秒75をマーク。世界新記録を樹立した。

写真 : エチオピアの国民的英雄ゲブレシラシエ。裸足のマラソンランナー故アベベ・ビキラや女子マラソンのファツマ・ロバと同じく、標高2,000m以上の高地、中央部オロモ州の出身である

エチオピアの国民的英雄ゲブレシラシエ

第13回サロマ湖100kmウルトラマラソンにおいて、砂田貴裕がロードの世界最高記録6時間13分33秒で優勝。

写真 : 未だ破られていない100kmロード世界最高記録をマークした砂田貴裕。サロマ湖のコースは高低差約40mと比較的平坦であるため、記録を狙う競技ランナーも参加している

未だ破られていない100kmロード世界最高記録をマークした砂田貴裕

<9月>

2,500年前のギリシャの故事に基づいて、アテネ~スパルタ間の約246kmを36時間以内で走るギリシャ・スパルタスロン。この年の大会には44人もの日本人ランナーが参加を得、うち24人が見事完走。

<10月>

世界一過酷な山岳レースともいわれるキナバル国際クライマソン(マレーシア・サバ洲)は、男女別のレースを走り、男子は標高4,101mの山頂往復コース、女子は3,314mの折り返しコース(共にスタート地点の標高1,866m)となる。このマウンテンランに、日本から初めて女子の部1人、男子の部に富士登山競走の連続優勝者が2人出場。見事完走を果たした。

写真:赤道直下にあるボルネオ島のキナバル国立公園が舞台。東南アジア最高峰のキナバルは、マレーシアで最初に登録された世界遺産の秘境でもある

赤道直下にあるボルネオ島のキナバル国立公園が舞台。東南アジア最高峰のキナバルは、マレーシアで最初に登録された世界遺産の秘境でもある

<12月>

アジア大会女子マラソンで高橋尚子が独走優勝、2時間21分47秒(当時世界歴代5位)をマークした。途中から気温が30℃を越え、湿度も90%と高かった最悪の気象条件ながら、9ヵ月前に高橋自身が出したばかりの当時日本最高記録を4分1秒も更新する快挙。

写真 : 1998年、高橋尚子は女子マラソン日本最高記録を2度塗り替えた

1998年、高橋尚子は女子マラソン日本最高記録を2度塗り替えた

(c)毎日新聞社

1999年(平成11年)

<1月>

AIMS(国際マラソンロードレース協会)によるニューイヤーファンランが、東京、香港、シドニー、バンコクの4都市で同時開催。1999年1月1日午前0時、地球の回転を軸に、各国の主要都市からランナーが次々とスタートする、地球を一つに結ぶイベント。参加費の半額がユニセフ(国際連合児童基金)へ寄贈されるチャリティランでもあった。
日本では、東京お台場で約2,000人を集めて行われ、翌月、AIMS会長の帖佐寛章氏から(財)日本ユニセフ協会へ集まった募金304万3914円が手渡された。

写真 : 仮装してファンランを楽しむランナーも多かった

仮装してファンランを楽しむランナーも多かった

<4月>

日本陸上競技連盟後援の、長野オリンピック記念「長野マラソン」開催。一流選手と市民ランナーが同時に走る制限時間5時間の大会として話題を集め、第1回ながら5,000人を越える応募があった。また、陸連が市民マラソンの後援(翌年大会から主催)をしたことでエポックメイキング的な意味も。

写真 : 多くの感動を与えた1998年の長野冬季オリンピックを記念し、誕生した大会

多くの感動を与えた1998年の長野冬季オリンピックを記念し、誕生した大会

<6月>

日本列島走り旅の全盲のランナー宮元武さん(61歳)と、伴走のウルトラランナー貝畑和子さん(46歳)。全国の難病患者を激励し支援を呼びかけながら全都道府県を走って回る澤本和雄さん(53歳)の6,000km走(日本1周激励マラソン)。さらにはもう一人、走るかたわら環境問題に関心を持ち「人と自然の調和」の実現のため、ゴミを拾いながらの日本縦断に挑戦する濱口剛光さん(29歳)など、“ランニングを通して社会に働きかけよう”と日本列島を走るランナーが目立った年。貝畑さんと澤本さんは共にサロマ湖100kmウルトラマラソンの常連でもある。

<8月>

スペイン・セビリアで世界陸上選手権開催。男子マラソンは佐藤信之が2時間14分3秒の3位。女子マラソンは優勝候補の高橋尚子が欠場し、2位に市橋有里(2時間27分2秒)が入った。

(c)北川外志廣

(c)北川外志廣

<9月>

日本のウルトラランナーにすっかりお馴染みになったギリシャ・スパルタスロンが、24日-25日の両日にわたって開催された。激しい昼夜の気温差に加え、1,000mを越す厳しい山越えを含む難コースだが、この年、日本からは51人が参加(男子46人、女子5人)、19人が完走した。超ウルトラマラソンに挑む日本人ランナーは留まるところを知らないようだ。

写真 : 1999年の大会は気象状況も過去最高の厳しさ。日中の気温は1日目35℃、2日目に43℃を記録した

1999年の大会は気象状況も過去最高の厳しさ。日中の気温は1日目35℃、2日目に43℃を記録した

前年、男子の世界最高記録が誕生したベルリンマラソンで、犬伏孝行が、2位ながら日本人初の6分台となる2時間6分57秒をマーク。児玉泰介の持っていた2時間7分35秒の日本最高記録を13年ぶりに更新した。同大会の男子優勝は、ジョセファト・キプロノ(ケニア)で記録は2時間6分44秒。女子はテグラ・ロルーペ(ケニア)が2時間20分43秒を出し、自身の持つ世界最高記録を更新した。

写真 : 自己記録を一気に5分以上短縮し、日本最高記録を出した犬伏孝行

自己記録を一気に5分以上短縮し、日本最高記録を出した犬伏孝行

<10月>

モロッコのハリド・ハヌーチがシカゴマラソンで人類初の2時間5分台を記録。最後の7.195kmを20分57秒の驚異的なラストスパートで走り、2時間5分42秒で優勝した。2年前のこの大会で2時間7分10秒の初マラソン世界最高記録を出したハヌーチは、これが3回目のマラソンだった。

写真 : 世界最高それも5分台突入という記録は、フィニッシュ前の直線路を埋めた1万人以上の大観衆を、歓喜の渦に巻き込んだ

世界最高それも5分台突入という記録は、フィニッシュ前の直線路を埋めた1万人以上の大観衆を、歓喜の渦に巻き込んだ