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市民ランニング小史

市民ランニング小史(1980年代)

市民ランニング小史

1980年(昭和55年)

<6月>

1日、日本で初のスポーツ整形外科が神奈川県川崎市の関東労災病院に誕生した。欧米に比べスポーツ医学では遅れていた日本にも、ようやくといったところ。

【海外】マラソン史上で初めての賞金レースが登場。22日、アメリカニュージャージー州で行われた「アトランティック・シティマラソン」では、プロとアマの2部制がとられ、プロの部には入賞者に賞金が支払われた。優勝のネイバースには15,000ドル(当時のレートで約360万円)、2位には4,000ドル(同約96万円)、3位には3,000ドル(同約72万円)だった。

1981年(昭和56年)

1981年にはふたつの「東京マラソン」が相次いで誕生する。ひとつは読売・日本テレビ系が2月に行う「読売日本テレビ東京マラソン」。もうひとつはその1カ月後にフジ・サンケイグループが行う「東京・ニューヨーク友好81東京マラソン」。新聞社、テレビ局の思惑と体面があっての過密開催になったが、1982年以降は読売・日本テレビ系とフジ・サンケイグループが交互に主催後援をすることになり、「東京国際マラソン」として一本化される。

アイアンマン」の第4回大会が14日ハワイ島のコナで行われた。前年まではオアフ島での開催だったが、参加者が368人と急増したため、会場を移したもの。日本からも57歳の堤貞一郎さんら8人が、日本人として初出場、全員が完走を果たした。距離はスイム1.2マイル(3.84Km)、バイク112マイル(179.2Km)、ラン26.2マイル(42.195Km)。

写真 : 好奇心旺盛で勇敢な、日本で最初の「鉄人」たち

好奇心旺盛で勇敢な、日本で最初の「鉄人」たち

<3月>

【海外】世界的に市民マラソンブームが起こりつつある中、イギリスでも「ロンドンマラソン」が新設され、29日、およそ30カ国から7,650人のランナーを集めて行われた。コースはグリニッチ公園をスタートし、バッキンガム宮殿にゴールするイギリスならではの42・195km。
 
 
写真 : 走りながらロンドン市内観光を、というようなコースが設定された

走りながらロンドン市内観光を、というようなコースが設定された

<4月>

19日、中央大学グラウンドで行われた月例記録会で、千葉成田高校の増田明美が1万mで33分20秒0の日本新記録を作った。従来の記録を一挙に2分26秒も縮める驚異的な快走だった。

1982年(昭和57年)

<1月>

24日、長居陸上競技場を発着点とする「82大阪女子マラソン」が内外の選手142人を集めて開催された。優勝はイタリアから来た無名の新人リタ・マルキシオで、自己記録をなんと16分も更新してのゴールだった。日本勢で期待された佐々木七恵は2時間42分09秒の11位とふるわなかった。

写真 : 大阪城は21km地点にそびえる

大阪城は21km地点にそびえる

<2月>

長距離各種目の日本記録を次々と塗り替えてきた高校3年の増田明美が、21日の「千葉県マラソン選手権・光町ロードレース」でマラソンデビュー。期待どおり好走をし、2時間36分34秒の日本女子最高記録を樹立した。

写真 : フルマラソンデビューで日本最高記録を出す

フルマラソンデビューで日本最高記録を出す

(c)日本スポーツ新聞社

1983年(昭和58年)

<1月>

第1回都道府県対抗女子駅伝」が京都で発足。これは82年まであった「京都マラソン」を発展的解消する形で新設したもの。全国的な規模の女子駅伝は「全日本実業団女子駅伝」についで2つ目で、長距離ランナーの発掘、レベルの底上げに期待がかかる。レースは23日開催され、フルマラソンの距離を分割した9区間で熱戦を展開、増田明美を擁する千葉が優勝を飾った。

写真 : 深尾真美(大阪)を先頭にした第1集団

深尾真美(大阪)を先頭にした第1集団

<8月>

28日、「第1回全日本盲人マラソン大会」が大阪長居公園で開催。79年に全盲のランナーが「青梅マラソン」への出場を希望したところ、伴走つきとはいえ危険と判断され、出場を拒まれた例があった。その後徐々に盲人ランナーを受け入れる大会は増えてはいたが、本大会はまさに盲人ランナーのためのものと注目された。選手は28都道府県から177人が参加、沿道の温かい声援の中を走った。

<9月>

【海外】ギリシャのアテネからスパルタまで250kmを36時間以内に走りぬく「第1回スパルタスロン」が30日開催された。出場したのは12カ国47人、そのうち完走したのはわずかに17人だった。優勝した地元ギリシャのイアニス・クーロスのタイムは21時間53分40秒という驚異的な快速記録だった。

写真 : 東京~ほぼ浜松までの距離を、わずか21時間で走りぬいた超人

東京~ほぼ浜松までの距離を、わずか21時間で走りぬいた超人

<11月>

「83東京国際女子マラソン」で佐々木七恵が日本人として初優勝。ロス五輪代表に決定。

写真 : ロス五輪代表決定の1番乗りを決めた佐々木七恵。指導者は、瀬古と同じくエスビーの中村清監督

ロス五輪代表決定の1番乗りを決めた佐々木七恵。指導者は、瀬古と同じくエスビーの中村清監督

1984年(昭和59年)

<8月>

ロサンゼルスオリンピック開催。注目のマラソンは女子が5日、男子が12日行われた。オリンピック初種目となった女子は、アメリカのジョーン・ベノイトが2時間24分52秒で優勝。グレテ・ワイツが2位、ロザ・モタが3位に入った。日本の佐々木七恵は19位、増田明美は16kmで棄権。
男子は58カ国107人が出場、猛暑の中、サバイバルレースを展開した。勝ったのはポルトガルのカルロス・ロペス。最強といわれた日本勢トリオは宗猛が4位入賞、瀬古利彦は14位、宗茂は17位だった。

写真 : 4位入賞、と気をはいた宗猛

4位入賞、と気をはいた宗猛

<10月>

全日本月間走り込み大会」始まる。2,300名が参加し、群馬県の両角一浩さんが1位。月間走行距離は1,502km。

写真 : 4位入賞、と気をはいた宗猛

<11月>

大会運営の新兵器RECS(レックス)登場。レースの着順判定や計時を瞬時に行い、それに付随して全参加者の記録一覧表作成・タイム入り完走証の発行などが短時間でできる画期的システムと話題を呼んだ。かねてより多くのランナーから寄せられていた「正確な記録をもっと早く」の声に応えるものとして、期待も大きい。なおRECSとは、Running Event by Computer System の略。

写真 : バーコード入りゼッケンを利用することによって、正確な記録が計時された

バーコード入りゼッケンを利用することによって、正確な記録が計時された

1985年(昭和60年)

<4月>

本場ハワイさながら南方の美しい海を泳げる「第1回全日本トライアスロン宮古島大会」がゴールデンウィーク初日の28日、沖縄県宮古島で開催された。参加人数は241人で先行の「皆生トライアスロン」にわずかに及ばなかったものの、総距離の長さ、ボランティアの数、沿道の応援に繰りだした人々の数など、国内最大規模の大会となった。

写真 : スタートは朝、透明度抜群の美しい海での水泳から。自転車、フルマラソンとつないで夜中のゴールになっても、島の応援の人々に温かく迎えられた

スタートは朝、透明度抜群の美しい海での水泳から

<12月>

8日、「太陽と海とジョガー」をキャッチフレーズにした「第1回NAHAマラソン」が沖縄県で開催された。初回大会にもかかわらず、参加者4,503人のビッグレースになった。

写真 : 那覇市の中心、国際通りを駆け抜けるランナーたち

那覇市の中心、国際通りを駆け抜けるランナーたち

1986年(昭和61年)

<4月>

瀬古利彦、「ロンドンマラソン」で優勝。2時間10分02秒。

北海道サロマ湖を舞台にウルトラマラソンが誕生。かねてより準備を進めてきた「第1回サロマ湖100kmマラソン」が14日、54人(うち50kmの部18人)の参加者を集めて行われた。当初はプレ大会の予定だったため規模的には小さかったが、ウルトラマラソンの魅力、感動の大きさを知らしめる大会となった。100kmの部初代チャンピオンは、7時間49分17秒でゴールを果たした東京の丹代政俊さんだった。

写真 : オホーツク海に続く広大なサロマ湖を横目に、何もない道をただ走る。大自然と走る自分だけ・・・それが、ウルトラマラソンの魅力のひとつだ

オホーツク海に続く広大なサロマ湖を横目に、何もない道をただ走る

その苛酷さで一躍有名になったギリシャのウルトラレース「スパルタスロン」(距離250km)が19日早朝から20日夜にかけて行われた。第3回にあたる今回、立教大大学院生の西村正和さんが日本人では初めて参加、苦闘の末、35時間37分で走り抜き、時間内完走に成功した。

1987年(昭和62年)

<1月>

2年前よりテレビでの生中継が始まっていた箱根駅伝で、この年、往復路のべ12時間40分の全コース生中継が実現。箱根駅伝人気を決定付けた。正月の箱根路を駆け抜ける爽やかな駅伝の生中継は、新春の夢を託して見入るロマンとして国民の間に定着、以降も30パーセントの大台を突破するなど高視聴率をマークし続けている。

<9月>

6大都市では初めての市民フルマラソン「87北海道マラソン」が6日、男子301人、女子78人の参加選手で行われた。
海外では盛んに行われている大都市での市民ランナー向けフルマラソンも、国内では諸般の事情から許可されていなかった。それだけに画期的な開催ではあるが、参加資格が男子3時間以内、女子4時間以内、と市民ランナーにはやや高いハードル。

写真 : 札幌市の全区を走るようにコース設定された都市型のフルマラソン

札幌市の全区を走るようにコース設定された都市型のフルマラソン

1988年(昭和63年)

<1月>

フルマラソン連続完走100回で、千葉県の折田兼隆さん(51歳)がギネスブックに登場。航空自衛隊新潟救援隊の折田さんは28歳のとき「新潟マラソン」を走って以来、22年間で100回のマラソンに出場、いずれも完走を果たしている。この前後から国内ではフルマラソン完走100回に挑戦する中高年ランナーが急増していく。

写真 : 年間10回前後フルマラソンを走る折田兼隆さん

年間10回前後フルマラソンを走る折田兼隆さん

<9月>

市民ランナーによる市民ランナーのための市民ランニング賞として、ランナーズが創設した「ランナーズ賞」の授賞式が選定された。
第1回の受賞者は80歳からジョギングを始め、92歳の現在まで国内外の300以上の大会に出場している岐阜の財津源吉さん、中高年の健康維持・増進のための持久走を「健康マラソン」と命名するとともに、その模範ともなる「天草パールラインマラソン」を主宰する熊本走ろう会、そして、国民の健康増進・スポーツ選手の競技力向上を目的とした研究を続けながら、自ら被験者となるべく5000メートル走を実施、生体に及ぼす影響を研究している日本体力医学会持久走大会同好会、以上1個人、2団体だった。

写真 : それぞれが偉大なパイオニア。第1回ランナーズ賞の受賞者たち

それぞれが偉大なパイオニア。第1回ランナーズ賞の受賞者たち

<10月>

2日、ソウルオリンピックの最終日に注目の男子マラソンが行われた。金メダルが有望視された日本勢は中山竹通の4位(2時間11分05秒)が最高で、瀬古利彦は9位、新宅永灯至は17位だった。優勝はイタリアのジェリンド・ボルディン、2位はワキウリだった。

写真 : フセイン、イカンガー、キャステラ、サラ、ワキウリ、瀬古、中山、新宅……と強豪が居並ぶソウル五輪だったが、伏兵と思われたボルディンが優勝

フセイン、イカンガー、キャステラ、サラ、ワキウリ、瀬古、中山、新宅……と強豪が居並ぶソウル五輪だったが、伏兵と思われたボルディンが優勝

女子優勝は「ポルトガルの紅いバラ」と人気の高いロザ・モタ。

写真 : 圧倒的に前評判が高かったモタ。1986年のヨーロッパ選手権、1987年の世界選手権でも優勝している彼女は、このオリンピックタイトルで大本命の貫禄を見せた

圧倒的に前評判が高かったモタ

1989年(平成1年)

<4月>

ランニングを多面的に研究・指導する機関として「ランニング学会」が設立され、2日、総会並びに記念行事が行われた。学会の正会員はランニング、ジョギング、ウォーキングを愛好する研究者及び実践者で、正会員の推薦で個人がなることができる。学会の発起人代表は山地啓司・富山大学教授。

<12月>

ますます日本人ランナーを魅了する「ホノルルマラソン」。第4回大会ではたったひとりだった日本人ランナーが、第6回では早くも海外参加最多人数に。その後もさらに日本からの参加は増え続け、第17回を迎えた今回は6,000人を突破。全参加者の55・5%を占めた。

写真 : マラソンが初めての人でも満足感が味わえる、と毎年全参加者の約半数が初フルのジョガーたち。制限時間がなく、7歳以上であれば誰でも参加できるのも特徴の一つといえる

マラソンが初めての人でも満足感が味わえる、と毎年全参加者の約半数が初フルのジョガーたち